私の生きざま 15
ひとは孤独を嫌う。
そうした風潮があるので、世間一般は「明るい性格」を好む。
その「明るい性格」の造形者は自我の外向性である。
一方で、自我には内向性がある。
誰の自我であれ、そのどちらか一つ、ではなく、外向性と内向性とが備えられている。
自我を産み出したのは、いうならば宇宙なので(自我は人間のシンボルである、といわれている)、その創造者に敢えて名前をつければ、神さまということになる。
そうしたことを前提にすれば、外向性と内向性のどちらがいいのか、といった想いは、無意味、無益である。
そもそも、どちらがいいのか、といった問題ではないのは云うまでもない。
だが、現実には、内向性のひとが外向性の明るさに憧れる、といったことは、むしろ普通にある。
何故か?
ひとは社会的存在だからである。
社会では、明るい性格が好まれる。
その場合には、あちらこちらに、仲の良いひとの集まりがある。
それは、それで大事なことであるだろうが、それを前提にすると、内向性のひとはどうすればいいのか?
最悪なのは、「外向型に憧れる内向型」である。
そのことへのヒントを、宗教家の故・鈴木 大拙師が語っている。
師は次のように云う。
「相対的世界では、どこを向いても喧嘩ばかり・・・。私が勧めたいのは日常生活の芸術家であれ」
師が云う意味での芸術家とは、自我の内向性に注意が向けられている。
その一例は料理である。
想いが屈したときに、台所に行って、何か一品を造ると、こころが晴れていくのではないだろうか?
そうした風潮があるので、世間一般は「明るい性格」を好む。
その「明るい性格」の造形者は自我の外向性である。
一方で、自我には内向性がある。
誰の自我であれ、そのどちらか一つ、ではなく、外向性と内向性とが備えられている。
自我を産み出したのは、いうならば宇宙なので(自我は人間のシンボルである、といわれている)、その創造者に敢えて名前をつければ、神さまということになる。
そうしたことを前提にすれば、外向性と内向性のどちらがいいのか、といった想いは、無意味、無益である。
そもそも、どちらがいいのか、といった問題ではないのは云うまでもない。
だが、現実には、内向性のひとが外向性の明るさに憧れる、といったことは、むしろ普通にある。
何故か?
ひとは社会的存在だからである。
社会では、明るい性格が好まれる。
その場合には、あちらこちらに、仲の良いひとの集まりがある。
それは、それで大事なことであるだろうが、それを前提にすると、内向性のひとはどうすればいいのか?
最悪なのは、「外向型に憧れる内向型」である。
そのことへのヒントを、宗教家の故・鈴木 大拙師が語っている。
師は次のように云う。
「相対的世界では、どこを向いても喧嘩ばかり・・・。私が勧めたいのは日常生活の芸術家であれ」
師が云う意味での芸術家とは、自我の内向性に注意が向けられている。
その一例は料理である。
想いが屈したときに、台所に行って、何か一品を造ると、こころが晴れていくのではないだろうか?
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