私の生きざま 13
ジムでの練習は、水曜日の夕方、一時間である。
代表さんの指導で、器具を使っての筋トレから始まる。
つづいて柔道、それが終わると総合格闘技を、代表さんを相手に行う。
その後は、両手合わせて20kgのダンベルを持ってのランジウオーク、ついで、同じダンベルを持ってのスクワット20回を行う。最後に懸垂を行い、それで終了になる。
私の場合は個人レッスンだが、それが終わったあと、集団での練習にひとが集まってくる。
10人ほどの中に、女性も2,3人、混じっている。
すべてのスケジュールが終わって一息ついているとき、代表さんにいわれた。
「年は84でしたっけ」と。
「11月がくると85になります。この歳でこういうことが出来ているのが不思議に思うことがあります」というと、代表さんが、「仕事もね」という。
「90歳ぐらいまではいけそうに思います」というと、代表さんは、黙って頷いていた。
練習が終わって家路につくとき、心地よい解放感がある。
週に五日、仕事でそれなりに頭を使い、週に一日、身体の鍛錬をしている。そして、何も予定がない日曜日は解放感がある。
日常生活は充実感があるが、そういう中で、折に触れて思うのは、人生に
は終わりがあることである。
どんな生き方をしようが、死が、その全てを消去する。
いつであったか、ある患者さんが云っていた。
「人間はどうせ死ぬんでしょ? だったら、こんなメンドクサイ人生に、さっさとケリをつけて何が悪いの?」と。
彼のその言葉は、私の心に突き刺さったままである。
その言葉の矢を抜き取るには、どういう答えがあるのだろうか?
一般論としての答えは、たぶん、ない。
だから、私がどう考えるのかが、課題である。
代表さんの指導で、器具を使っての筋トレから始まる。
つづいて柔道、それが終わると総合格闘技を、代表さんを相手に行う。
その後は、両手合わせて20kgのダンベルを持ってのランジウオーク、ついで、同じダンベルを持ってのスクワット20回を行う。最後に懸垂を行い、それで終了になる。
私の場合は個人レッスンだが、それが終わったあと、集団での練習にひとが集まってくる。
10人ほどの中に、女性も2,3人、混じっている。
すべてのスケジュールが終わって一息ついているとき、代表さんにいわれた。
「年は84でしたっけ」と。
「11月がくると85になります。この歳でこういうことが出来ているのが不思議に思うことがあります」というと、代表さんが、「仕事もね」という。
「90歳ぐらいまではいけそうに思います」というと、代表さんは、黙って頷いていた。
練習が終わって家路につくとき、心地よい解放感がある。
週に五日、仕事でそれなりに頭を使い、週に一日、身体の鍛錬をしている。そして、何も予定がない日曜日は解放感がある。
日常生活は充実感があるが、そういう中で、折に触れて思うのは、人生に
は終わりがあることである。
どんな生き方をしようが、死が、その全てを消去する。
いつであったか、ある患者さんが云っていた。
「人間はどうせ死ぬんでしょ? だったら、こんなメンドクサイ人生に、さっさとケリをつけて何が悪いの?」と。
彼のその言葉は、私の心に突き刺さったままである。
その言葉の矢を抜き取るには、どういう答えがあるのだろうか?
一般論としての答えは、たぶん、ない。
だから、私がどう考えるのかが、課題である。
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